kokoro 日本の心

単なる雑記です。

検疫生活5日目 大阪城へ行ってきた。

マスクをつけての散歩やコンビニでの買い物は許されているので近所の大阪城公園を 少し散歩してきた。子供のころから大阪生まれの大阪育ちなので良く知った場所である。

お城が出来たのは1583年(天正11年)今から400年以上前、豊臣秀吉が築城したことは良く知られているが、当時のお城は1615年(慶長20年)の大阪夏の陣で焼失してしまった。

その後、徳川幕府により1629年(寛永6年)に大阪城修築工事によって復活、大阪は幕府直轄の地になり再び栄えた。江戸時代には何度も火災を経験し、1665年(寛文5年)には火災で天守を焼失、しばらく天守閣を持たない城であった。近代になり、明治政府は大阪城の敷地を陸軍の用地とした。

ほどなく大阪市によって市民から募金を募り1931年(昭和6年)に天守閣を再建した。しかし太平洋戦争時 1845年に度重なる米軍の大阪大空襲で大阪市民1万人以上が亡くなった際、天守閣は少し損傷しただけで済んだものの周辺はすべて焼けてしまった。しかし戦後の復興で周囲に広大な大阪城公園が作られて復活、天守閣は大阪の象徴として今も健在である。

1959年(昭和34年)には学術調査が行われ現在の大阪城の地下には豊臣秀吉が建立した当時の石垣が眠っていることが確認された。つまり徳川幕府が再建した大阪城は古い大阪城の上に新しく建てられたものであるということがわかった。豊臣政権を滅ぼした徳川政権が「俺が新しい権力者だー」ということを誇示するため上から建てたものであり、また築城技術も豊臣時代から相当進んでおり古い遺構を捨てるのも大変な作業なので、そのまま土台を埋めて上に建設したというようなことらしい。

メキシコのアステカ帝国の大ピラミッドを埋め立ててカトリック教会を建設したのと似ているところがあるかも知れないが背景はかなり違う。日本の場合は権力者交代と言っても同一民族、同一宗教、同一言語内である。つまり首長である「ファミリー」が豊臣家から徳川家へ代わっただけということである。

メキシコの場合はアステカ人からスペイン人へ支配者が代わった。スペイン人は大男で白人でありアステカ人からすればこれまで見たこともない異民族である。まったく意志疎通できない異質の言語を話す。アステカ神は多神教カトリックは1神教と宗教も異なる。そのような権力交代と言うか征服でありその衝撃度は豊臣徳川とは天変地異ほども違っている。

エルナンコルテスがアステカを滅ぼしたのは1521年8月13日である。その後、数十年で豊臣秀吉が天下を取り大阪城を築城しているのは興味深い。その前後に当時南蛮人と呼ばれたスペイン人、ポルトガル人は日本に来ており彼らは日本もアステカ同様に征服して植民地にしようと狙っていた。

ただ当時の日本人はすでにアステカやインカがスペイン人によって滅ぼされたのを知っていたので日本の支配者層は非常に警戒していたということや、既に鉄器を用いて日本刀などの武器を作っていたこと、鉄砲も西洋から入手したサンプルを模倣してすぐに自分たちで作れるようになったこと(これは当時西洋人にとっては大変な驚きだった)、そして彼ら南蛮人がくる以前から天下統一のために武士階級が戦争に明け暮れており、戦闘技術に優れていたこと、そういう状況を分析してスペインは日本を征服する夢をあきらめたのである。アステカのピラミッドは宗教上の建物であり首長が儀式を司る場所だったと思うが、大阪城は宗教とは切り離されており、政治の中心地であるとともに、高度に訓練された専門の戦闘集団である武士階級の堅固な要塞であり、そのために設計された超実用的な建造物であった。侵入者を阻み、戦闘を有利に運ぶために幾重にも取り囲んだ堀やそれを渡る橋、入り組んだ迷路のように作られた道をみればその目的がわかる。当時バテレンキリスト教布教に名を借りて、実は征服のためのスパイとして来日しており、本国に日本の当時の様子を逐次レポートしていたが、大阪城を目の当たりにすればおいそれと日本を征服しようと思わないであろう、すればどれだけ出血を強いられるかわからない。アステカを征服した際はコルテスの勢いで出来たかもしれないが、それから少し時間もたっている。日本人は戦争ばかりして残虐な国民のようだ。刀も馬も持っているし鉄砲もいつの間にかマネして自分たちで製造している。こんな国「こわー、これ以上関わるのやめとこ」となったはずである。かくして日本は征服されずに済んだのかも。