kokoro 日本の心

単なる雑記です。

京都魔界伝説 平安京は怨霊が来ないようにあらゆる防御をしていた。

こんにちは

京都は外国人の観光客も良く訪れる日本で一番有名な観光スポットのひとつであるが、平安京への遷都時の事情を今後外国人の私の友人たちにも説明できるようにまとめておきたい。

京都のはじまりである794年に遷都された平安京桓武天皇が実の弟の早良親王の怨霊に恐怖するあまり、怨霊を完全に封じるべく建設された魔都市なのである。

その始まりは我々が中学で習う「鳴くよウグイス平安京」のようなおめでたい都ではない。

時は奈良時代末期にさかのぼる。

桓武天皇は、母の出自がもともと卑しい身分だったので皇太子の地位に就く可能性は少なかったが、皇位継承者の上位である皇后の井上内親王や異母弟の他戸(おさべ)親王が何らかの陰謀で皇位継承者を廃された際に皇太子になり、その後、健康不安のある父(光仁天皇)から譲位されて天皇の地位についた。

この陰謀には桓武天皇藤原百川の関与の噂がある。

天皇になった時、すでに長男である安殿(あて)親王が生まれていたが幼少だったため、皇太子には実の弟の早良(さわら)親王が任命された。

桓武天皇が亡くなった時に幼帝を心配した父の光仁天皇の意向もあったに違いない。

天皇に即位して、いろいろ政治に口出ししてくる奈良の大寺院の影響を受けたくないがために、まだ建設中だったにもかかわらず長岡京に早々と遷都を決定した。

その造営を任せていた、信頼する家臣の藤原種継が造営中に何ものかに暗殺される事件が起こった

天皇はその事件に早良親王が関与していると決めつけ、皇太子の地位をはく奪し、淡路に島流しにしたのだが、身に覚えのない早良親王は無実の罪を主張し、断食して抗議したあげく淡路に移送される間に憤死してしまった。

平安京に遷都される9年前、785年の出来事である。

あとあと早良親王の怨霊をこれほどまで恐れるところを見ると、自分の実の息子に皇位を継承させたいばかりに種継暗殺事件を絶好の好機ととらえて桓武天皇が自ら仕組んで早良親王に無実に罪を着せて皇太子の地位を剥奪し、殺したのではないかと推定されている。

実の弟殺しである。

早良親王亡き後、実子の安殿(あて)親王が無事、皇太子となった。

 

その後、長岡京では次々と災いが起こったと言う。

地震、日照りによる飢饉、大洪水、天然痘などの疫病でバタバタと人が死んだ。

桓武天皇のお后が2年の間に3人も原因不明の理由で亡くなった。

3人とも朝起きたら横で死んでいたという異常な死に方である。

 

早良親王皇位継承権の可能性もなく若い頃は出家していたため生涯独身だったと言われる。

自分を殺した兄を苦しめるため祟りが后の方へ向けられたのであろうか。

時を同じく桓武天皇の母親も死去している。

皇太子 安殿親王の両耳が突然聞こえなくなった。

 

それにもまして、きっと夜な夜な早良親王の霊が枕元に現れて天皇を苦しめたに違いない。

怖わー、もう完全に東海道四谷怪談、テレビの恐怖番組の世界である。

 

早良親王の怨霊がすべての災いをなしているに違いないと恐怖におののいた天皇は祟りのある長岡京、しかもまだ建設も終わっていない長岡京を捨てて、早良内親王の怨霊から逃れようと平安京遷都を決意するのである。

 

その建設に当たって桓武天皇は徹底的に怨霊封じをしたという。

京都の地は中国の風水にある四神相応の地形にぴったり当てはまり、東は青龍(河川)、西は白虎(大道)、南は朱雀(海、平野)、北は玄武(山、台地)の四神に守られているとされる。

東の青龍は鴨川、西の白虎は山陰道、北の玄武は船岡山、南の朱雀は巨椋池が擬せられたと言われている。

船岡山には今も玄武神社が鎮座している。

桓武天皇は中国の神話に基づき平安京の東西南北の4つの方位に霊獣を配置し、早良親王の怨霊が天皇の後を追って京都に入って来れないようにしたかったのである。

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四神相応

それでも安心できない桓武天皇は、次に都の東西南北の磐座(いわくら)の下に、一切経という仏教の聖典を総集した経文を埋め込んで都の守護とし怨霊が入れないようにした。

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山住神社の磐座

磐座(いわくら)とは神社が出来る以前の古代日本における神の御座所である。

神の御座所に仏教の経典を埋め込むとは念には念を入れた対策で天皇の必死さが良くわかる。

さらに桓武天皇は東西南北にスサノオノ命を祭った「大将軍神社」を建立してスサノオに怨霊と対決してもらおうとした。

スサノオはご存知のように天照大神の弟で八岐大蛇を退治した荒ぶる神である。

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そして鬼門の方角(北東)には比叡山延暦寺を置き、怨霊が入って来ないようにし、裏鬼門(南西)には石清水八幡宮を置いた。

北は貴船神社鞍馬寺

都の入口には東寺と西寺。

 

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比叡山延暦寺

 

もう寺も神社もごちゃまぜで必死で早良親王の怨霊がついて来ないように都を守ることに努力を傾けた。

 

それでも都にはその後も不吉なことがたくさん起こったという。

清涼殿の門に雷が落ちて焼け落ち、朱雀門も完成の翌日に落雷により焼け落ちた。

 

それだけではなく富士山も古い記録によると平安時代の800年から1083年までの間に10回くらい噴火している。

桓武天皇がまだ在位であった800~802年には延暦の大噴火という大規模な噴火が史実に残されている。

 

もう何やってもまったくあかん。

どこまでも怨霊がついて来る。

 

早良親王の強い祟りの恐怖にかられた桓武天皇は、親王天皇の地位を与え「崇道(すどう)天皇」の諡号(しごう)を送った。

諡号とは、貴人の死後に送る贈る生前の事績への評価に基づく名前のことである。

ちなみに鎮魂のために天皇諡号を送られたのは歴代天皇の中で早良親王だけである。

そういう強い怨霊、祟りはかつてなかったのだろう。

そしてついには奈良に崇道天皇社、京都に上御霊神社下御霊神社を建立し鎮魂に努めた。

 

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崇道天皇社

 

しかしそれもむなしく桓武天皇はその後、脳梗塞を患い言葉が不自由になり、皇太子は両足がマヒして歩けなくなった。

最後に805年早良親王への謝罪の詔が発せられたが、翌806年桓武天皇崩御した。

いろいろ寺とか神社とか作って怨霊が入ってこないようにしてもなんも役に立ってないやん。

と思うが現代の我々は、祟りと天災、疫病等は結び付かないものと知っている。

人間のちっぽけな思い、営みなど大自然の前には無力なものだからだ。

今回のコロナウイルスは誰かの祟りなのか? 

そんなわけない、ウイルスのせいだ。とみんな知っている。

 

早良親王を殺そうが殺すまいが天災は起こっていたに違いないが、実の弟を謀略で殺した、その死にざまも断食のあげく死んだか、それは表向きで実は指示して殺させたのかも知らないが、残忍に殺したのであろう

その罪の意識、良心の呵責が、すべての災いを怨霊が原因だと思わせ、その罪の意識から逃れるために取り憑かれたように神や仏にすがったのだろうと思う

 

最初は、怨霊が入って来れないようにすれば良いと霊獣や神社を配置して、これでやれやれ安心だと思っていても災害は起こり続けた。

やっぱり怨霊ついて来てるやん。

すまんかった。天皇にしてやる、神社も立てたる、謝罪の詔勅も出す、わしが悪かった、どうか許してくれ。と一転して謝ることになるのだが何をやってもムダだった。

 

この苦しみこそが罪を犯した当人に報いる本当の祟りであろう。

 

一般民衆も実の弟殺しということを知っていて、天変地異、疫病などを祟りのせいだと思って天皇へ「何とかしろや」と暗に批判を強めていたのではないか。

人の口に戸を立てられないので今より情報は発達していない時代だが、噂でこういうことはすぐに広まるものである。

敵対勢力に対しても何とか天皇の権威を見せなければならない。

そこで鎮魂のためもあり、多くの神社、仏閣を建立したのか?

 

 

いずれにせよ当時の桓武天皇の心境は良くわからないが、平安京建立の背景にはこうしたどろどろしたの深い感情が渦巻いている。

 

ではまた。

 

京都異界紀行―千年の魔都の水脈

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