神社本庁と金刀比羅宮の離脱
神社本庁という聞きなれない言葉を耳にしたので調べて見た。
本庁というからには官庁かと思ったのだが、そうではない。
名前が紛らわしいのだが、
神社本庁とは、伊勢神宮を本宗とし、日本各地の神社を包括する宗教法人である。
で、宗教法人って何?
宗教者と信者でつくる法人格を取得した宗教団体で全国で182千ほどもあるそうだ。
2009年の週刊ダイヤモンドによれば宗教法人のトップ3は
1位 神社本庁 信者数 68百万人
2位 幸福の科学 11百万人
3位 創価学会 8百万人
神道を信じている人の数って無茶苦茶多いだろうから1位が神社本庁で信者数68百万人というのはわかるが、幸福の科学ってこんなに信者がいるのか?
ちょっとびっくりさせられる。
神社本庁の概要は
<設立> 1946年(昭和21年)
<本部> 東京都代々木
<目的>
包括下の神社の管理、指導、神道の宣揚、祭祀の執行、信者の教化育成、本宗である
つまり、簡単に言うと全国の神社を管理する組織ということである。
全国に神社は8万社あり、79千社が神社本庁に加盟している大組織である。
こういう組織がないと8万社もの神社はなかなか管理できないであろうし、必要な組織だと思う。
しかし歴史的に見ると、明治から昭和、敗戦にかけて紆余曲折している。
<歴史>
1877年(明治10年)
内務省 社寺局設立
1890年(明治23年)
国民の信教の自由
神道は国家から宗教団体として公認
しかし神社は国家から宗教としてではなく国家祭祀を公的に行う位置づけとされた。
1899年(明治32年)
神社本庁の前身で、国家祭祀、祭式の形式を整えて行った。
1900年(明治33年)
内務省 社寺局 ⇒ 神社局と宗教局に分離
政府方針として神社は国家の宗祀だとして神社局を独立
1940年(昭和15年)
内務省 神社局 ⇒ 神祇院と名前を変える
1945年(昭和20年) 敗戦
GHQ ⇒ 自由の指令、神道指令、宗教法人令公布、神祇院廃止
*神道指令 = 信教の自由の確立、軍国主義の排除、国家神道を廃止、政教分離
つまり、GHQは個人の信仰は認めるが、太平洋戦争時に多くの国民を死に追いやった狂信的な国家神道は禁止し、政治と宗教の完全な分離を図った。
有無を言わさず神祇院を廃止した。
至極もっともな決断であり、それを素早く実行した。
1946年(昭和21年) 神社本庁設立
大日本神祇会、皇典議究所、神宮奉斎会の神社関係3団体が合同し、包括宗教法人として神社本庁設立し、全国の神社を統括することになった。
<設立趣旨>
全国神社の総意に基づき、本宗と仰ぐ皇大神宮のもとに全国神社を含む新団体を結成し、協力一致、神社本来の使命達成にまい進し、もって新日本の建設に寄与せんことを期す。
お稲荷様、八幡様、スサノオの命様など、やおろずの神と言うがごとく、神道には様々な信仰があるので教義は定めないこととした。
設立及び活動の精神は憲章と綱領に現れている。
1956年(昭和31年) 敬神生活の綱領
神道は天地悠久の大道であって、崇高なる精神を培い、太平を開くの基である。
(以下略)
1980年(昭和55年) 神社本庁憲章制定
第1条 神社本庁は伝統を重んじ、祭祀の振興と道義の昂揚を図り、以て大御代の彌榮を祈念し合わせて四海万邦の平安に寄与する。
設立の歴史、経緯、綱領、憲章を見ても非常に立派な背景だ。
GHQの関与に対して、日本人の神道に対する信仰を重んじ、政教を分離して神社を存続させたことは先人の立派な努力と知恵の結晶であると思う。
もし当時の関係者が米国人も含めて間違えた判断をしていたら日本人の日本人たる拠り所が失われていた可能性もあったと思う。
大変立派な組織なのである。
ところが、ここ数年、組織がガタガタしているのは残念だ。
つい先日も金刀比羅宮が神社本庁からの離脱を通知する書面を送付したと話題になっている。
神社本庁の不動産処分に対する疑惑、大嘗祭の関連行事に対する不信が原因だそうだ。
過去のごたごたはダイヤモンドオンラインが詳細に調べているのでそちらを見ればわかるが最近の出来事をざっとあげると
2017年 富岡八幡宮 離脱を決めた女性宮司が弟に刺殺される
2020年 愛知県神社庁 決議書提出
「神社本庁における一連の疑惑はもはや看過できない」
「最近のいろいろな疑惑は包括化の神社の名誉を著しく損ねる」
九州地区神社庁 コロナ危機管理対応で緊急提案書提出
以上のように、ここ3~4年で結構バズっている。
神社本庁の統理、総長、理事など役員は各神社の宮司さん等から専任されて運営に当たっているとのこと。
人間のやることなどで、いろいろと行き違い等もあろうかと思うが、当初の崇高な設立理念に基づいて、もしこれまで運営に不手際があったのであれば、ぜひ建て直してもらいたいものである。
信仰は弱い人間の拠り所であり、特に神様のおられる神社は常に我々の身近にあり神聖なもの、畏怖すべきものとして敬われている。
神社を司る人間と神様は別物だと思うが、それでも人間のごたごたした姿は見たくない。
ではまた。
づぼらや閉店 新世界に衝撃
有名なてっちりの「づぼらや」が閉店するそうである。
そもそも大阪人なら誰でも「づぼらや」のテレビ宣伝は知っている。
「し~んせかいのづぼらやで~」というあれだ。
難波蓬莱の551のシュウマイのCMと京橋のグランシャトーのCMと同じくらい知名度が高い。
【関西人が好きな関西ローカルCM】関西で知らない人はいない?「551蓬莱」 551の豚まん ある時ない時リビング篇・アイスキャンデー 夏祭り篇
子どものころはテレビ宣伝で「づぼらや」の名前だけは知っていたが、何の店かわからずにこのCMの歌を歌っていたりした。
そもそも新世界は危険な街だったので昭和3~40年代にはちょっと近寄り難い雰囲気もあったし。
大人になって、ちょっと行ってみようと思って家族で初めて行ったが庶民的な価格で、てっちりを出してくれる店だった。
さて、何で「づぼらや」って言う名前やねん。
これたぶん大阪人でも知らん人間が多いと思う。
お店によるとお客さんに「づぼら」をしてくださいと言う意味で名付けたそうだ。
づぼらとは大阪弁で「なまけた、だらしない、不精な」という意味で、「あいつ、づぼらなやっちゃな、信用でけへんな~」というように使う。
書き方は「ずぼら」ではなく「づぼら」が正しい。
「づぼらや」は大正9年創業以来、正月以外364日、毎日美味しいフグを用意してきたとのことで、いつも忙しい大阪のお客さんに、たまにはのんびりしてくださいという意味で命名したそうである。
知らんかった~。泣ける話やんか。
でも閉店とは。。。。
一回だけしか食べに行ったことなかったからな~、ごめんな。
桂枝雀を超える落語家はいない
私は大阪生まれの大阪育ちなので他の大阪人同様「笑い」には厳しい方だと思う。
2人で何か話をしていて、相手もしくはこちらが何かの話題を振り出す時は最後に落ちがないと落ち着かない。
落ちがないと、「なんやねんそれ?」である。
「落ちはいったい何やねん?」という意味である。
最後に落ちを言った時に「あはは、なんでやねん」とか「それあほちゃうか、しょーもな~」とかで笑ってくれたら大満足だし、ほっとするのである。
土曜日の昼は小学校から帰るとテレビで「吉本新喜劇」、その後、ちょっと大人っぽい「松竹新喜劇」の藤山寛美の芝居を見て育った。
藤山寛美ではギャグというより人情噺で笑いの中に人間の機微が表現されていて子供にも面白かった。
「高津の富」など古典落語からとったテーマもあった。
さて、その落語である。
落語に親しんだのは中学生くらいからだろうか。
図書館で落語の本(演目をそのまま書いてあるもの)を借りてきて読んだりしていた。
古典落語は、江戸、明治、大正時代で創作された落語のことで、音楽で言うクラシックのようなものであるから、ネタは決まっている。
聞いている方は最後の落ちまで大体分かっている。
なので演ずる人の話芸、技量がもろに出る。
クラシックでも指揮者と演奏者が違うと曲が全然違うのと同じである。
例えば「饅頭怖い」という落語は、みんなの集まりで順番に「怖いもんを言い合おう」となったのだが、ある男が饅頭が大好きなくせに「饅頭が怖い」とみんなに言う。
そいつは普段から嫌な奴だったので、その後、みんなで相談して、嫌なものをそいつの家に投げ込んでやろう。
それで困るところを見て笑ってやろうとたくらむのだが、大好きな饅頭がタダで手に入ったのだから、その男は大喜びでパクパク食う。
みんながっかりして、「ほんまに怖いもんはなんや?」とそいつに聞いたところ、
「今度は熱いお茶が怖い」というのが落ちである。
小学校から知っている噺であるが、桂枝雀が演ずるのを見るまで面白いとも何とも思わなかった。
枝雀は桂米朝の弟子である。
米朝は上方落語中興の祖と言われ、紫綬褒章、人間国宝、文化功労者、文化勲章、従三位等の受賞歴のあるお方である。
なるほど噺はうまい。
しかし笑いを取るというより伝統芸能の継承者、重鎮というような感じである。
一方、桂枝雀。
めちゃめちゃ面白い。
何が面白いのか自分でも良くわからないが、わかっているのだが、必ず同じところで笑ってしまう。
1979年に枝雀寄席がテレビでスタートした時から本格的に聴き始め、2020年の今では「枝雀落語」DVD全集も持っているのだが、何回視ても面白い。
残念ながら芸に打ち込むあまり重いうつ病を患ってしまい59歳と言う若さで亡くなられたのだが、もし生きておられたらもっと面白かったに違いない。
その後、いろいろな落語家の噺を視たり聴いたりしたが、未だに枝雀の噺のように笑える落語家は知らない。
大阪人は笑ってなんぼ、笑かしてなんぼなので、勲章なんかより笑いを取れる奴が一番エライのである。
では今日はこのへんで。
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京都魔界伝説 小野小町は絶世の美人だったと言うけれど男から見れば美人とは?
こんにちは
今回は京都の魔界伝説ではないのだが、世界三大美人と言われた小野小町ははたしてどれだけ美人だったのかが気になったので調べてみた。
調べてみると小町はむちゃくちゃ謎につつまれている。
Wikipediaでは、平安時代前期9世紀頃の女流歌人、六歌仙、三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人とある。
有名な歌人でしかも超美人だったと言う。
どれだけ美人だったのだろう。
これは調べる前から期待が高まる。
絶世の美女だったとの伝説だが、しかし絵や彫像などは存在せず、後世に描かれた絵でも後ろ姿が大半を占める絵が多いとのこと。
後ろ姿が多いのは絶世の美女だったので下手に描けなかったらしい、それに後ろ姿の方が男性の想像力をかき立てるからということと、女性が嫉妬しないように後世の画家の配慮らしい。
ググってみるとこんな絵である。
黒髪も長いし十二単(じゅうにひとえ)のあでやかさもあって、なるほど後ろ姿の方が理想の美人顔を自ら創造できるので期待は高まる。
隠されると余計に高まる男のエロ心理は古今東西同じらしい。
なんと前を描いた姿もあった。
しかし、あ~しかしである。
これは残念、がっかり。
全然ドキっとこない!
後ろ姿の方が絶対美人だと思ってしまう。
平安美女は「しもぶくれ顔」が美人の基準とされて、今と美人の基準と違っていると言われているが、いやそれでもこう描いてしまうとあかんやん。
有村架純さんだって日本風のお顔立ちだけど、すごい美女なんですよ。
小野小町様が世界三大美女と言うなら、写真のない時代、前からの姿を描くなら気合入れて描いてくれよな~、まったく。
やっぱり絵だったら、前姿はこれくらいの美形を描いて欲しい。平安時代の画家たちよ。
かっ、かわいすぎる。
この絵が中学、高校の時に日本史か古文の教科書に載っていれば、もっと興味もって小野小町様のことを調べたのに。
男子生徒なんてしょせん、女性の容姿、肉体がすべてのエネルギーの源だってわからないのか? 教育委員会。
こっちは現代のアイドル小野小町。
着物をアレンジした衣装が素晴らしい
しかし元祖 小野小町。
謎と伝説だらけ。
そして後世にもっとも影響を与えている美女のようだ。
美人コンテストの優勝者にも〇〇小町という称号を与えたりするし、お米の「あきた小町」、東北、秋田新幹線の列車は「こまち」、秋田市の野球場は「こまちスタジアム」、京都市のミス小野小町コンテスト、そして3月18日は小町の忌日で小町忌として春の季語ともなっている。
謎その1
出自が不明確。
小野篁(たかむら)の孫とも娘ともいわれているが、前回のブログでは生没年を推定で下記のように紹介した。
篁が23歳の時に小野小町が生まれたことになり、孫というのはちょっと苦しい。
もし娘であれば、漢詩の素養があった才女であったというのもうなずける。
しかし確たることはわからない。
◎有名な遣隋使の小野妹子の子孫。
小野妹子 生年不明だが第一回遣隋使(607年)に派遣
小野篁 802年~853年
小野小町 825年~900年 (生没年不詳、篁の孫?、娘とも言われる)
一族には美人で有名な小野小町、書家の小野東風。
謎その2
出生地が不明。
ちょっと行ってみなあかんよね。
なんで平安美女が秋田生まれで、いつ京都に来たの?
晩年もそこで過ごしたらしい。
小野小町は秋田美人だったのか?
ほんとかどうか定かではなく、生まれ故郷は京都市山科、彦根市小野町、福井県越前市、福島県小野町、熊本県熊本市、神奈川県厚木市などの諸説がありはっきりしていない。
しかし小野氏は東北地方は陸奥の国にゆかりのある人が多く、小野篁(たかむら)も若い頃は東北地方にいたらしいので、つながらない話ではない。
謎その2
晩年は老婆になり不遇で乞食をしていたという説がある。
絶世の美女が晩年は醜い老婆になり乞食をして最後は野原で朽ち果てたという逸話はあまりにドラマティックな結末だ。
なぜそこまで困窮したのか?
美人だったらパトロンがいたはず。
謎その3
全国に小町のお墓がある。
前述の生誕地でもある秋田県湯沢市、宮城県大崎市、山形県米沢市など東北地方、愛知県あま市、京都府のいくつもの市、和歌山県和歌山市、鳥取県、岡山県、山口県など。
Wikipediaによると全部で16カ所の地名が紹介されている。
生まれた場所も不明なら亡くなった場所も不明。
いったいどこで死んだの?
謎その4
仕事は何をしていたのか?
小町は天皇の後宮に仕える女性だったのではないかという説がある。
同じように町という名で後宮に仕える「三条町」とか「三国町」という女性が知られているからだ。
後宮とは天皇の后が住まわれる場所であり、后に仕える女性を女房、女官と呼んだ。
小野の姉を小野町、妹を小町と呼んだのではなかろうかという説だ。
謎その5
なぜ生涯、独身だったのか。
小野小町の歌は恋の歌が多い。
恋の歌が多いので男嫌いとは思えない。
超美貌の持ち主なので言い寄る男どもをあしらいつつ、恋を楽しむうちに婚期を逃してしまったのだろうか?
深草少将の百夜通いの伝説など深草少将がむっちゃ可哀そうになる。
100夜目で死んでしまうなんて。
俺やったら化けて出るはず。
それとも小町は高貴な誰かにかなわぬ恋をしていたのだろうか?
代表的な作品
実に多くの和歌を詠んでおり古今和歌集などに掲載されているが、印象深いと思ったものを上げておく。
これはあまりにも有名。小野小町と言えばこの歌。
花の色は うつりにけりな いたずらに わが身世にふる ながめせしまに
桜の花の色は、むなしくも色あせてしまった、いろいろなことに思い悩んでいるうちに衰えてしまったわたしの美貌のように。
以下、甘い恋の歌。
思ひつつ 寝ればや 人の見えつらむ 夢と知りせば 覚めざりしものを
想いながら眠りについたので、あの人が夢に現れたの? もし夢とわかっていいたら覚めないようにしたのに。
いとせめて 恋しき時は むばたまの 夜の衣を かへしてぞ着る
どうしようもなく恋しいと思う時には、恋しい人に夢で逢えるように夜の衣を裏返して着て眠る。
秋の夜も 名のみなりけり 逢ふといへば 事ぞともなく 明けぬるものを
秋の夜が長いと言うが言葉だけだ、愛しいあの人に逢えれば何ということもなくあっと言う間に明けてしまう。
人に逢わむ 月のなきには 思ひおきて 胸はしり火に 心やけをり
愛しいあなたに逢う手立てがない夜には、起きていても胸を焦がす火に心が焼けて目がさえてしまう。
どうだろうか?
こういう歌を絶世の美女に詠ませる男は誰だったのだろう。
あ~うらやましい。
こういう際どい歌を美女に詠まれたら惚れざるを得ない。
女から見たらあざとい(笑)
小野小町が絶世の美人だったという伝説は単に容姿が優れていたという話だけではなかっただろう。
世の中の人がすべて認める容姿端麗に加えて教養があり、和歌にみるように色、艶があったはず。いい女だったのだ。
容姿だけでは男は惚れこんだりしないものだ。
完璧な容姿でなくとも、謎の魔性、少しミステリアスな存在に対しては男は非常に気になる。気になってしょうがない。
男は単純な生物なので、もし美女がこういう情熱的な恋の歌を詠んで嘘でも自分に送ってくれたら、それだけでもうメロメロである。
美女であればなおさら、でも、たとえあまり美女でなくても、恋は盲目、彼の眼には絶世の美女に映るのである。
小野小町はそういう男から見て絶対「いい女」だったのだろう。
だから絶世の美女の称号を得たのである。
ではまた。
京都魔界伝説 平安京は怨霊が来ないようにあらゆる防御をしていた。
こんにちは
京都は外国人の観光客も良く訪れる日本で一番有名な観光スポットのひとつであるが、平安京への遷都時の事情を今後外国人の私の友人たちにも説明できるようにまとめておきたい。
京都のはじまりである794年に遷都された平安京は桓武天皇が実の弟の早良親王の怨霊に恐怖するあまり、怨霊を完全に封じるべく建設された魔都市なのである。
その始まりは我々が中学で習う「鳴くよウグイス平安京」のようなおめでたい都ではない。
時は奈良時代末期にさかのぼる。
桓武天皇は、母の出自がもともと卑しい身分だったので皇太子の地位に就く可能性は少なかったが、皇位継承者の上位である皇后の井上内親王や異母弟の他戸(おさべ)親王が何らかの陰謀で皇位継承者を廃された際に皇太子になり、その後、健康不安のある父(光仁天皇)から譲位されて天皇の地位についた。
天皇になった時、すでに長男である安殿(あて)親王が生まれていたが幼少だったため、皇太子には実の弟の早良(さわら)親王が任命された。
桓武天皇が亡くなった時に幼帝を心配した父の光仁天皇の意向もあったに違いない。
天皇に即位して、いろいろ政治に口出ししてくる奈良の大寺院の影響を受けたくないがために、まだ建設中だったにもかかわらず長岡京に早々と遷都を決定した。
その造営を任せていた、信頼する家臣の藤原種継が造営中に何ものかに暗殺される事件が起こった。
天皇はその事件に早良親王が関与していると決めつけ、皇太子の地位をはく奪し、淡路に島流しにしたのだが、身に覚えのない早良親王は無実の罪を主張し、断食して抗議したあげく淡路に移送される間に憤死してしまった。
平安京に遷都される9年前、785年の出来事である。
あとあと早良親王の怨霊をこれほどまで恐れるところを見ると、自分の実の息子に皇位を継承させたいばかりに種継暗殺事件を絶好の好機ととらえて桓武天皇が自ら仕組んで早良親王に無実に罪を着せて皇太子の地位を剥奪し、殺したのではないかと推定されている。
実の弟殺しである。
早良親王亡き後、実子の安殿(あて)親王が無事、皇太子となった。
その後、長岡京では次々と災いが起こったと言う。
地震、日照りによる飢饉、大洪水、天然痘などの疫病でバタバタと人が死んだ。
桓武天皇のお后が2年の間に3人も原因不明の理由で亡くなった。
3人とも朝起きたら横で死んでいたという異常な死に方である。
早良親王は皇位継承権の可能性もなく若い頃は出家していたため生涯独身だったと言われる。
自分を殺した兄を苦しめるため祟りが后の方へ向けられたのであろうか。
時を同じく桓武天皇の母親も死去している。
皇太子 安殿親王の両耳が突然聞こえなくなった。
それにもまして、きっと夜な夜な早良親王の霊が枕元に現れて天皇を苦しめたに違いない。
怖わー、もう完全に東海道四谷怪談、テレビの恐怖番組の世界である。
早良親王の怨霊がすべての災いをなしているに違いないと恐怖におののいた天皇は祟りのある長岡京、しかもまだ建設も終わっていない長岡京を捨てて、早良内親王の怨霊から逃れようと平安京遷都を決意するのである。
その建設に当たって桓武天皇は徹底的に怨霊封じをしたという。
京都の地は中国の風水にある四神相応の地形にぴったり当てはまり、東は青龍(河川)、西は白虎(大道)、南は朱雀(海、平野)、北は玄武(山、台地)の四神に守られているとされる。
東の青龍は鴨川、西の白虎は山陰道、北の玄武は船岡山、南の朱雀は巨椋池が擬せられたと言われている。
船岡山には今も玄武神社が鎮座している。
桓武天皇は中国の神話に基づき平安京の東西南北の4つの方位に霊獣を配置し、早良親王の怨霊が天皇の後を追って京都に入って来れないようにしたかったのである。
それでも安心できない桓武天皇は、次に都の東西南北の磐座(いわくら)の下に、一切経という仏教の聖典を総集した経文を埋め込んで都の守護とし怨霊が入れないようにした。
磐座(いわくら)とは神社が出来る以前の古代日本における神の御座所である。
神の御座所に仏教の経典を埋め込むとは念には念を入れた対策で天皇の必死さが良くわかる。
さらに桓武天皇は東西南北にスサノオノ命を祭った「大将軍神社」を建立してスサノオに怨霊と対決してもらおうとした。
スサノオはご存知のように天照大神の弟で八岐大蛇を退治した荒ぶる神である。
そして鬼門の方角(北東)には比叡山延暦寺を置き、怨霊が入って来ないようにし、裏鬼門(南西)には石清水八幡宮を置いた。
都の入口には東寺と西寺。
もう寺も神社もごちゃまぜで必死で早良親王の怨霊がついて来ないように都を守ることに努力を傾けた。
それでも都にはその後も不吉なことがたくさん起こったという。
清涼殿の門に雷が落ちて焼け落ち、朱雀門も完成の翌日に落雷により焼け落ちた。
それだけではなく富士山も古い記録によると平安時代の800年から1083年までの間に10回くらい噴火している。
桓武天皇がまだ在位であった800~802年には延暦の大噴火という大規模な噴火が史実に残されている。
もう何やってもまったくあかん。
どこまでも怨霊がついて来る。
早良親王の強い祟りの恐怖にかられた桓武天皇は、親王に天皇の地位を与え「崇道(すどう)天皇」の諡号(しごう)を送った。
諡号とは、貴人の死後に送る贈る生前の事績への評価に基づく名前のことである。
ちなみに鎮魂のために天皇の諡号を送られたのは歴代天皇の中で早良親王だけである。
そういう強い怨霊、祟りはかつてなかったのだろう。
そしてついには奈良に崇道天皇社、京都に上御霊神社、下御霊神社を建立し鎮魂に努めた。
しかしそれもむなしく桓武天皇はその後、脳梗塞を患い言葉が不自由になり、皇太子は両足がマヒして歩けなくなった。
最後に805年早良親王への謝罪の詔が発せられたが、翌806年桓武天皇は崩御した。
いろいろ寺とか神社とか作って怨霊が入ってこないようにしてもなんも役に立ってないやん。
と思うが現代の我々は、祟りと天災、疫病等は結び付かないものと知っている。
人間のちっぽけな思い、営みなど大自然の前には無力なものだからだ。
今回のコロナウイルスは誰かの祟りなのか?
そんなわけない、ウイルスのせいだ。とみんな知っている。
早良親王を殺そうが殺すまいが天災は起こっていたに違いないが、実の弟を謀略で殺した、その死にざまも断食のあげく死んだか、それは表向きで実は指示して殺させたのかも知らないが、残忍に殺したのであろう。
その罪の意識、良心の呵責が、すべての災いを怨霊が原因だと思わせ、その罪の意識から逃れるために取り憑かれたように神や仏にすがったのだろうと思う。
最初は、怨霊が入って来れないようにすれば良いと霊獣や神社を配置して、これでやれやれ安心だと思っていても災害は起こり続けた。
やっぱり怨霊ついて来てるやん。
すまんかった。天皇にしてやる、神社も立てたる、謝罪の詔勅も出す、わしが悪かった、どうか許してくれ。と一転して謝ることになるのだが何をやってもムダだった。
この苦しみこそが罪を犯した当人に報いる本当の祟りであろう。
一般民衆も実の弟殺しということを知っていて、天変地異、疫病などを祟りのせいだと思って天皇へ「何とかしろや」と暗に批判を強めていたのではないか。
人の口に戸を立てられないので今より情報は発達していない時代だが、噂でこういうことはすぐに広まるものである。
敵対勢力に対しても何とか天皇の権威を見せなければならない。
そこで鎮魂のためもあり、多くの神社、仏閣を建立したのか?
いずれにせよ当時の桓武天皇の心境は良くわからないが、平安京建立の背景にはこうしたどろどろしたの深い感情が渦巻いている。
ではまた。
京都 魔界伝説 小野篁(おののたかむら)って何もの?
こんにちは
京都の清水寺や鴨川に興味を抱いて、その歴史、由来を調べて行くと小野篁(おののたかむら)なる人物に行き当たった。
彼は朝廷の役人であるかたわら閻魔大王の副官を勤め、寺の井戸を通って地獄に出入りしていたらしい。
いったい、何ものなのか?
なぜ生身の人間が地獄に行ったり来たりできるのだろうか?
興味が湧いたのでググってみた。
◎顔、こんな感じ。けっこう迫力ある。
眼光鋭くちょっと怖い。お公家様とは思えない気迫を感じる。
閻魔様と比べても引けを取らないくらい。
◎有名な遣隋使の小野妹子の子孫。
小野妹子 生年不明だが第一回遣隋使(607年)に派遣
小野篁 802年~853年
小野小町 825年~900年 (生没年不詳、篁の孫?、娘とも言われる)
一族には美人で有名な小野小町、書家の小野東風。
ちなみに小野小町のかわいいイラストをネットでみつけたのでコラしておく。
百人1首などでは後ろ姿しか書かれていないが、クレオパトラ、楊貴妃と並ぶ世界三大美女であったとのことなので、実物はこのイラスト以上の美しさに違いない。
さて、篁(たかむら)であるが、
◎体格が人間ばなれしていた。
身長188センチである。
当時の日本人の平均身長は150~160センチ。
幼少のころから武芸にも秀でていたという記述があるので、身長だけでなく体格も優れていただろう、通りを歩いているだけでも大いに目立ち、一般庶民から見れば同じ人間とは思えなかったに違いない。
◎漢詩や和歌に秀でていた。
書も天下無双と言われていたほど名人。
逸話として、
嵯峨天皇が「無悪善」という皇居の落書きを読んでみろ。と篁にせまったところ、「悪さが(嵯峨)なくば、善けん」 (悪い嵯峨天皇がいなければ良いのに)と読んだとか。
その落書きはお前が書いたものだから読めるのだろう。と責められると、「いや、私はどんな書でも読めます」と開きなおった。
それが天皇はさらに怒って、それではこれを読んでみろ。と命令した。
「子子子子子子子子子子子子」
これを即座に
「猫の子の子猫、獅子の子の子獅子」と読んで返したとか。
天才である。
◎性格は反骨、しかし情に厚い
若いころから反骨で天皇にも逆らうくらい、ついたあだ名は「野狂」。
みんなから「あの小野の野郎、やばいぜ、狂ってる」と呼ばれていた。
しかし情に厚い人であった。
非常な親孝行、母親が亡くなった時は嘆き悲しんだ。
金銭に淡泊で、給料は困った友人等に分け与えていたため自分は貧しかった。
異母妹が亡くなった際に詠んだ歌が有名である。
泣く涙 雨と降らなむ わたり川 水まさりなば かへりくるだに
(涙が雨のように降って三途の川が増水すればよい、そうすれば川を渡れなくなって亡くなった妹がかえってくるのに)
この異母妹は篁の恋人だったとも言われている。
ここからが彼のスーパー伝説か?
◎2度の遣唐使失敗から生還した
小野篁は遣唐使の副使に選ばれて836年と837年の2回に渡り(篁34歳と35歳の時)渡唐を試みたが失敗している。当時は船も小さく、航海術も未熟、気象情報もなく、日本海を渡るのは命がけだった。
しかし2度も嵐にあって失敗したが死なずに生還している。
翌838年、3度目は大使の藤原常嗣と衝突して、突如乗船を拒否、そして腹いせに朝廷を批判、風刺する漢詩を書いて発表した。
◎流刑地から生還した。
すべての官位をはく奪され、838年に島流しにあった。
病院も薬もない当時、島流しは生きて帰れる見込みの薄い死罪に次ぐ重い刑罰だったと言う。
行くだけでも途中で山賊に命を奪われ、船が沈没する可能性もある。
その船出の時に篁が詠んだ百人1首でも有名な歌
わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人の釣舟
(海人の釣り舟よ、都に残してきた愛しいあの人に告げて欲しい、大海原にあまたある島々の間を縫うようにして私は舟を漕ぎだしていったと。)
隠岐の島の位置はここ、絶海の孤島。
しかし、なんと2年後に篁は赦免されて朝廷に返り咲いたのである。
理由は文才に優れているとのことだったが、やはり相当な傑物だったのだろう。
そういう人物は多少跳ね返りでも権力はほっとかないし、もともと篁が喧嘩した相手が藤原氏で、忖度した嵯峨天皇がやむなく島流しにせざるを得なかったのか。
先の遣唐使失敗から2度に渡って生還した話とか、帰れるはずのない絶海の孤島への島流しから生還したということで、天才、身長も体格もけたはずれの篁は、みんなから、
彼は不死身に違いない。
地下世界とつながっているのではないか?
閻魔大王とも友達なんじゃないか?
だから助かったんじゃなかろうか?
と思われたのではなかろうか。
◎死んだ人を生き返らせた伝説
その後、小野篁は朝廷では官吏を、夜は閻魔大王の副官で裁判の補佐をしていると信じられ後世、様々な伝説が記録されている。
藤原高藤が急死した際に閻魔庁の篁によって冥土から生還した話(江談抄)
病死した藤原良相が篁の執り成しによって蘇生した話(今昔物語)
篁が菩薩戒を授ける人物として満慶上人を閻魔大王に紹介する話(元享釈書)
愛欲を描いた罪で地獄に落とされた紫式部を篁が閻魔大王にとりなした話(俗説)
◎まとめ 結局、小野篁は何物か?
以上、見てきた篁の経緯やその人柄を見てみると、
頭脳は天才、身体能力も抜群、権力者におもねない強い精神力、情に厚く家族を愛し、部下、友人の面倒をとことん見る。
何度危機に合っても不屈の闘志で生還する超人。
万人のあこがるすべてを持っているスーパーマンの存在が浮かび上がる。
これは一般庶民からみれば到達できない神の領域である。
天皇陛下が神であった時代、その天皇陛下に面と向かって逆らうのであるから、同列に位置づけられてもおかしくはない。
大津市にある小野氏を祭った小野神社内には小野篁を祭った小野篁神社もあり、そのご祭神は小野篁命(おののたかむらのみこと)その人である。
なので彼は何ものか?と問われれば神様である。
ただし単に彼の体格や不死の逸話だけで神様になったのではない。
彼自身が救いを求めて悩み、苦しみ、そしてそれに対する真摯な取り組みが広がって神様として信仰、伝説を生んだのではないか。
篁は有能で権力に屈しない人間だが、遣唐使に2回失敗し、島流しにもあって挫折を何度も経験している。
なので庶民や困窮している人に対しては限りなく優しい人であったに違いない。
そして家族、恋人、友人にも情に厚かった。
苦しんでいる人たちを何とか救いたい、また亡くなった最愛の人たちを何とかして生き返らせたいと常に思っていたのではないか。
六道珍皇寺には篁が地獄を行き来したという井戸があるが、彼は政府の高官で国民の暮らしにも大きな責任を負っていただけに、その井戸を通って本当に地獄に行ってでも閻魔大王と話をして苦しんでいる人を何とか救いたいと悩んだに違いない。
それを裏付けるものかどうかわからないが、篁は、地獄の苦しみを衆生に代わって受けてくれる地蔵菩薩を祭って矢田寺を建立した。
そういう彼自身の苦しみ、悩み、そして有能がゆえの数々の取り組みが伝説を呼び今のような逸話ができあがったのではないかと思う。
冥土から生還した話でも、亡くなった人を深く思い、生き返るものなら何とかしたいといろいろと手を尽くしたのではなかろうか。
一般大衆はそういう彼の姿を見て伝説を作り上げていったのではないかと思う。
もしくは彼は本当に霊能者で地獄を行き来していたのか?
特殊能力で死んだ人間を生き返らせることができたのかも知れない。
真実は良く分からないが、京都魔界には常に深い話があるように思える。
ではきょうはこのへんで。
京都 清水寺(きよみずでら)はこの世とあの世をつなぐ魔界か?
こんにちは
コロナの影響でテレビでも再放送の番組が多くなっている。
なにげにテレビでブラタモリをやっていたので見ると興味深かった。
京都の清水寺のあたりをブラブラしているのだが、内容は下記のブログに詳しいので興味のある人は見てもらうと良い。
清水寺の歴史、エピソードも興味深かったが、それよりも昔の京都では鴨川を三途の川とみなしていたということ、鴨川の西側をこの世、東側をあの世と見立てていた。というガイドのコメントが強烈に印象に残った。
清水寺は鴨川の東側にある。あの世に存在している。
清水寺だけではなく、鴨川の東側には知恩院、南禅寺、八坂神社、建仁寺、妙法院、智積院などがあり、なるほどそう言えば有名な神社、寺院は鴨川の東側に固まっている。
ブラタモリでは鴨川の松原橋から、古くからの参道である清水坂を歩いて清水寺に向かうが、その途中、石碑に「幽霊」の文字見られる、有名な空也上人が開いた六波羅蜜寺を通る。
その後、六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)を通る。
ここには閻魔大王と、昼は朝廷の官僚、夜は閻魔大王の副官で大王と共同で仕事をしていたという不思議な言い伝えのある小野篁(おののたかむら)の像が祭られている。
小野篁はこの寺に残る井戸から、「なんと冥界を行き来していた!」らしい。
どんな人間なのか?
それとも人間ではなくもともと魔界のバケモノが朝廷の役人をしていたのか?
その井戸も寺には現存している。
もう鴨川を超えて参道に入るだけですでに魔界の匂いがプンプンしてくる。
そして寺の付近には断層があり、崖の上と下は今は坂道でつながっているが、当時はこの断層は「この世」と「あの世」の境とされていたらしい。
坂道やトンネルなどは昔から魔界への入口とされていたのだ。
調べて見ると、昔、京都では鴨川の左(西側)は洛中と呼ばれる市街地であり、この世の人間の住むところであった。
皇居ももちろんに洛中あった。
鴨川の右(東側)は洛外と呼ばれ、荒野が広がっており、戦乱や疫病で亡くなった人たちが放棄され、死体置き場化となっていたらしい。
清水寺付近は平安時代初期は鳥辺野と呼ばれる葬送地であり、六道珍皇寺は鳥辺野の入口にあたり、現世と冥土の境にある地として「六道の辻」と呼ばれていたそうだ。
そして極めつけ、あまり観光客には知られていないが清水寺の裏側には死者の眠る広大な墓地が広がっている。
ほとんど気づかれていないし行かない地域である。
私も今まで何度か清水寺や知恩院などに参拝したことはあるが、鴨川が三途の川だとか、東側あの世だとか、清水寺の裏手に広大な墓地があるという話は勉強不足で知らなかった。
何度か京都に訪問したが、「さすが京都、神社仏閣が多いな~、なんでかな~」と能天気に思っていた。
奈良、平安時代、鎌倉、戦国時代、近世では太平洋戦争まで日本人にとっては「死」は非常に身近なものであったと思う。
過去、戦乱や疫病で人はバタバタ死んだ。
今のコロナウイルスの比ではない。
つらいこと、悲しいことが日常茶飯事で生きていること自体が苦しい、難しい時代。
とくに京都は過去から戦乱が絶えなかった地である。
ざっと数えただけでも平安、鎌倉、室町にかけて京都は多くの戦乱に巻き込まれている。
保元平治の乱 1156年~1160年
南北朝動乱 1337年~1392年
応仁の乱 1467年~1478年
天文法華の乱 1536年
本能寺の変 1582年
特に応仁の乱では、寺社や公家武家屋敷含め京都の大半が焼失し、放火略奪が横行し多くの死者を出し京都は荒廃したと言う。
京都人にとって戦後とは第二次世界大戦後ではなく、応仁の乱後を指すらしい。
戦乱のたびに京都では家は焼かれ、町は荒廃し、多くの人が死んだ。
疫病も大きな影響を与えている。
今の八坂神社は656年の創建で当初は祇園社という名称である。
有名な祇園祭は八坂神社の祭りであるが、869年に各地で疫病(天然痘、赤痢など)が流行した際に八坂神社で行われた祇園御霊会を起源とするものである。
当時は今と違ってウイルスに対する知識もない時代である。
衛生状態も悪い、冷蔵庫などなく蒸し暑い京都では食べ物はすぐに腐る。
伝染病になっても患者を隔離しなければと言うことも知らないし、今のように手洗いの習慣もうがいの習慣もない。
人から人へ感染してバタバタ死ぬ。どうしようもない。
今の中国やイタリアのコロナウイルスのようだ。
しかも当時、疫病は「現世に恨みを残して死んだ人たちのたたり」と考えられていた。
御霊会というのは、読んで字の通り怨霊や疫病神を鎮めるためのものであった。
鴨川の東側に寺院が多いのは、恨みを残して死んだ人が災いをなさないように、その魂を鎮めるために建立したのであろう。
しかし清水寺はそれだけではない。
京都では昔から戦乱や疫病で、死は今よりもっと身近なものであるとともに、理不尽であり、暴力的であり、なぜ死んだのか?死ななければならないのかまったく理解できないものであり、突然訪れる肉親、友人の死に対して人は強い無力感、無常感に苦しんできた。
現代の日本人は日常「死」を意識して過ごしている人は少ない。
社会がこの上なく平和だからであるが、まるで自分は死なないかのように考えて日々、仕事をし、生きている人は多い。
「100日後に死ぬワニ」が話題になったのは、人はある日突然死ぬ、それは起こり得ることであり、避けられない運命である。
しかし日常ではそうは考えていないし、考えたくもない、それこの漫画でいやでも思い出さされたから話題になったのではないだろうか。
当時の日本人は戦乱に苦しみ、疫病に苛まれ理不尽な死を日常的に目の当たりにしながら生きていた。
無力感、無常感は今と比べ物にならない。
愛する人の理解できない死は苦しみ以外の何物でもない。
また自分は死なないかのように考えて生きていたわけはないはずだ。
人は簡単に死ぬ、しかもある日突然、意味なく死ぬ、野良犬のように野垂れ死にすると覚悟して生きていたはずである。
でもなぜなのかわからずに。
そういう状況に置かれれば人は何をするのだろうか?
今でも同じだが、きっと誰かに説明、助け、救いを求める。
なぜ父は死んだのでしょうか? なぜ彼は死ななければならなっかたのでしょうか?
わからない、教えてください。
キリスト教も仏教も、宗教はそれに対する答えを教えてくれ導いてくれるものだ。
清水寺はその答えを教えてくれるとともに、より工夫して参道や寺のインフラを整え亡くなった懐かしい人にも会えるようにもしてくれたのだ。
鴨川の三途の川を渡って、魔界に入るのだ。
亡くなった肉親、最愛の恋人、友人に会うために鴨川の三途の川を渡るのである。
もうそのへんからドキドキ、わくわくしてくる。
本物の冥土感を出すために閻魔大王もいたり、魔界の人間かも知れない小野篁の出入りした井戸とか見学して本物感ありありである。
お参りをしながら参道を通ってあの世(墓場)に到着する。
そこには懐かしい人がいる。
もう一度会える。
いつでもここに来れば会える。
そのあと立派な清水寺に行き死者の冥福を祈る。
それだけで本当に心が安らぐ。
なぜ死んだのかわからないが、死んだものは仕方がない、でもここに来ればいつでもあ会えると言う冥土の疑似体験であり、ある意味、宗教的なエンタテイメントでもある。
また自分もいつかはここに来るのだという覚悟と安心も交じる。
そして、清水寺参拝を終えて、坂を下り鴨川を超えると魔界から現世に戻る。
死者に会えて懐かしみ、でもふたたび現世に戻った。
また勇気を振り絞って生きようと決意する。
精神の再生である。
清水寺にはそういう役割があったと思う。
魔界であると同時に、庶民のアミューズメント施設でもあろうか。
今では観光客が多くなり、その由来を知らない参拝者の方が圧倒的に多くなったと思うが、清水寺に限らず京都の鴨川の東側にある神社、仏閣はそういう歴史と役割を持っているのではないだろうか。
ではまた。