京都 清水寺(きよみずでら)はこの世とあの世をつなぐ魔界か?
こんにちは
コロナの影響でテレビでも再放送の番組が多くなっている。
なにげにテレビでブラタモリをやっていたので見ると興味深かった。
京都の清水寺のあたりをブラブラしているのだが、内容は下記のブログに詳しいので興味のある人は見てもらうと良い。
清水寺の歴史、エピソードも興味深かったが、それよりも昔の京都では鴨川を三途の川とみなしていたということ、鴨川の西側をこの世、東側をあの世と見立てていた。というガイドのコメントが強烈に印象に残った。
清水寺は鴨川の東側にある。あの世に存在している。
清水寺だけではなく、鴨川の東側には知恩院、南禅寺、八坂神社、建仁寺、妙法院、智積院などがあり、なるほどそう言えば有名な神社、寺院は鴨川の東側に固まっている。
ブラタモリでは鴨川の松原橋から、古くからの参道である清水坂を歩いて清水寺に向かうが、その途中、石碑に「幽霊」の文字見られる、有名な空也上人が開いた六波羅蜜寺を通る。
その後、六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)を通る。
ここには閻魔大王と、昼は朝廷の官僚、夜は閻魔大王の副官で大王と共同で仕事をしていたという不思議な言い伝えのある小野篁(おののたかむら)の像が祭られている。
小野篁はこの寺に残る井戸から、「なんと冥界を行き来していた!」らしい。
どんな人間なのか?
それとも人間ではなくもともと魔界のバケモノが朝廷の役人をしていたのか?
その井戸も寺には現存している。
もう鴨川を超えて参道に入るだけですでに魔界の匂いがプンプンしてくる。
そして寺の付近には断層があり、崖の上と下は今は坂道でつながっているが、当時はこの断層は「この世」と「あの世」の境とされていたらしい。
坂道やトンネルなどは昔から魔界への入口とされていたのだ。
調べて見ると、昔、京都では鴨川の左(西側)は洛中と呼ばれる市街地であり、この世の人間の住むところであった。
皇居ももちろんに洛中あった。
鴨川の右(東側)は洛外と呼ばれ、荒野が広がっており、戦乱や疫病で亡くなった人たちが放棄され、死体置き場化となっていたらしい。
清水寺付近は平安時代初期は鳥辺野と呼ばれる葬送地であり、六道珍皇寺は鳥辺野の入口にあたり、現世と冥土の境にある地として「六道の辻」と呼ばれていたそうだ。
そして極めつけ、あまり観光客には知られていないが清水寺の裏側には死者の眠る広大な墓地が広がっている。
ほとんど気づかれていないし行かない地域である。
私も今まで何度か清水寺や知恩院などに参拝したことはあるが、鴨川が三途の川だとか、東側あの世だとか、清水寺の裏手に広大な墓地があるという話は勉強不足で知らなかった。
何度か京都に訪問したが、「さすが京都、神社仏閣が多いな~、なんでかな~」と能天気に思っていた。
奈良、平安時代、鎌倉、戦国時代、近世では太平洋戦争まで日本人にとっては「死」は非常に身近なものであったと思う。
過去、戦乱や疫病で人はバタバタ死んだ。
今のコロナウイルスの比ではない。
つらいこと、悲しいことが日常茶飯事で生きていること自体が苦しい、難しい時代。
とくに京都は過去から戦乱が絶えなかった地である。
ざっと数えただけでも平安、鎌倉、室町にかけて京都は多くの戦乱に巻き込まれている。
保元平治の乱 1156年~1160年
南北朝動乱 1337年~1392年
応仁の乱 1467年~1478年
天文法華の乱 1536年
本能寺の変 1582年
特に応仁の乱では、寺社や公家武家屋敷含め京都の大半が焼失し、放火略奪が横行し多くの死者を出し京都は荒廃したと言う。
京都人にとって戦後とは第二次世界大戦後ではなく、応仁の乱後を指すらしい。
戦乱のたびに京都では家は焼かれ、町は荒廃し、多くの人が死んだ。
疫病も大きな影響を与えている。
今の八坂神社は656年の創建で当初は祇園社という名称である。
有名な祇園祭は八坂神社の祭りであるが、869年に各地で疫病(天然痘、赤痢など)が流行した際に八坂神社で行われた祇園御霊会を起源とするものである。
当時は今と違ってウイルスに対する知識もない時代である。
衛生状態も悪い、冷蔵庫などなく蒸し暑い京都では食べ物はすぐに腐る。
伝染病になっても患者を隔離しなければと言うことも知らないし、今のように手洗いの習慣もうがいの習慣もない。
人から人へ感染してバタバタ死ぬ。どうしようもない。
今の中国やイタリアのコロナウイルスのようだ。
しかも当時、疫病は「現世に恨みを残して死んだ人たちのたたり」と考えられていた。
御霊会というのは、読んで字の通り怨霊や疫病神を鎮めるためのものであった。
鴨川の東側に寺院が多いのは、恨みを残して死んだ人が災いをなさないように、その魂を鎮めるために建立したのであろう。
しかし清水寺はそれだけではない。
京都では昔から戦乱や疫病で、死は今よりもっと身近なものであるとともに、理不尽であり、暴力的であり、なぜ死んだのか?死ななければならないのかまったく理解できないものであり、突然訪れる肉親、友人の死に対して人は強い無力感、無常感に苦しんできた。
現代の日本人は日常「死」を意識して過ごしている人は少ない。
社会がこの上なく平和だからであるが、まるで自分は死なないかのように考えて日々、仕事をし、生きている人は多い。
「100日後に死ぬワニ」が話題になったのは、人はある日突然死ぬ、それは起こり得ることであり、避けられない運命である。
しかし日常ではそうは考えていないし、考えたくもない、それこの漫画でいやでも思い出さされたから話題になったのではないだろうか。
当時の日本人は戦乱に苦しみ、疫病に苛まれ理不尽な死を日常的に目の当たりにしながら生きていた。
無力感、無常感は今と比べ物にならない。
愛する人の理解できない死は苦しみ以外の何物でもない。
また自分は死なないかのように考えて生きていたわけはないはずだ。
人は簡単に死ぬ、しかもある日突然、意味なく死ぬ、野良犬のように野垂れ死にすると覚悟して生きていたはずである。
でもなぜなのかわからずに。
そういう状況に置かれれば人は何をするのだろうか?
今でも同じだが、きっと誰かに説明、助け、救いを求める。
なぜ父は死んだのでしょうか? なぜ彼は死ななければならなっかたのでしょうか?
わからない、教えてください。
キリスト教も仏教も、宗教はそれに対する答えを教えてくれ導いてくれるものだ。
清水寺はその答えを教えてくれるとともに、より工夫して参道や寺のインフラを整え亡くなった懐かしい人にも会えるようにもしてくれたのだ。
鴨川の三途の川を渡って、魔界に入るのだ。
亡くなった肉親、最愛の恋人、友人に会うために鴨川の三途の川を渡るのである。
もうそのへんからドキドキ、わくわくしてくる。
本物の冥土感を出すために閻魔大王もいたり、魔界の人間かも知れない小野篁の出入りした井戸とか見学して本物感ありありである。
お参りをしながら参道を通ってあの世(墓場)に到着する。
そこには懐かしい人がいる。
もう一度会える。
いつでもここに来れば会える。
そのあと立派な清水寺に行き死者の冥福を祈る。
それだけで本当に心が安らぐ。
なぜ死んだのかわからないが、死んだものは仕方がない、でもここに来ればいつでもあ会えると言う冥土の疑似体験であり、ある意味、宗教的なエンタテイメントでもある。
また自分もいつかはここに来るのだという覚悟と安心も交じる。
そして、清水寺参拝を終えて、坂を下り鴨川を超えると魔界から現世に戻る。
死者に会えて懐かしみ、でもふたたび現世に戻った。
また勇気を振り絞って生きようと決意する。
精神の再生である。
清水寺にはそういう役割があったと思う。
魔界であると同時に、庶民のアミューズメント施設でもあろうか。
今では観光客が多くなり、その由来を知らない参拝者の方が圧倒的に多くなったと思うが、清水寺に限らず京都の鴨川の東側にある神社、仏閣はそういう歴史と役割を持っているのではないだろうか。
ではまた。