kokoro 日本の心

単なる雑記です。

検疫生活7日目 大阪城の謎

こんにちは!

引き続き大阪城の謎について調べてみたい。昨日は大手門の謎の継ぎ柱について調べてみたが、他にも謎めいた話、逸話は結構あるようだ。そのうち興味深い話を4つほど。

1.大阪城落城の際に豊臣秀頼真田幸村は城を抜け出して鹿児島に落ちのびた。

大坂の陣で豊臣家が滅んだあとに奇妙なわらべ歌がはやった。「花のようなる秀頼さまを、鬼のようなる真田が連れて退きも退いたり加護島へ」というものだが、鹿児島には秀頼と幸村の墓や逸話まで語り継がれているらしい。

2.三光神社には「真田の抜け穴」と呼ばれるものがあり、大阪城とつながっている。大阪の陣の際に、幸村が作ったとも徳川方が作ったとも言われているがはっきりしたことはわかっていない。この辺りにかの有名な真田丸があったとのこと。実際、抜け穴が大坂城までつながっていたかどうかは定かではない。

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真田の抜け穴跡

3.水のない堀(空堀)に残された謎の石組み

内堀りの南側(南内堀)は空堀になっており、なぜ空堀りなのか? その理由ははっきりとわかっていない。他の堀は水堀りになっており湧水層まで掘り下げて地下水でもって堀の水をまかなっている。南内堀は湧水層までの深さまで掘っていなく、なぜもっと掘り下げなかったのか疑問が残るが解明されていない。高台なので掘るのが大変だったから?とも言われているし、一カ所だけ空堀にして敵を引き付けやすくしているとの説も。この空堀は豊臣時代の大坂城時代からも空堀だったとのことである。この空堀に奇妙な石組があるのをご存知だろうか? 高さ1.5M、幅2M程度の石組で石垣から石垣まで渡している。中は空洞でかがめば大人一人がくぐれるトンネル状になっているらしい。本丸から二の丸への秘密の通路だとか言われているが、実はこの建造物の意図はまだ解明されていない。当初から空堀だったのであれば秘密の通路ということでもなさそうなのだが。上から丸見えだし。

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空堀にある奇妙な石組

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中は人が通れるらしい

4.落雷

前回も書いたが、豊臣秀吉の築城した大坂城は夏の陣の際に落城消失し、徳川家により1629年(寛永6年)に豊臣大坂城の上に徳川大阪城が築城された。ところがその後40年足らずで焼失して天守閣がなくなるまでの間に、たびたび落雷に会っている。大きなものでは1660年(万治3年)には火薬庫に落雷、大岩がふっとびほどの爆発で多数の死者を出した。その後も落雷に会い続け、とうとう1665年(寛文5年)には天守閣の金の鯱(しゃちほこ)に落雷し天守閣は消失してしまった。そして実はこの落雷した日は豊臣秀吉の命日である8月18日だったので大阪人はみんな「家やっさんも裏切らん言うといて太閤はん裏切って子供と嫁はんまで殺して天下とりよったさかいな、やっぱり太閤はんのたたりや、怒ってはんで」、「ほたら何かい、源やん、大阪城にも何畳もある大きな和室があって靴ぬいで入らなあかんのか?」「はあ、それはたたみや」「アイスクリーム食べたら棒に書いてあってもう一本もらえるやつ?」「それはあたり、わいが言うとんのはたたりやたたり」「ほうか、ほんまひどいやっちゃで、あの家やすめが」と噂しあったとか。

その後は1931年(昭和6年)に市民によって天守閣が再建されるまで天守閣は存在しなかった。再建の費用はすべて大阪市民からの寄付でまかなわれたのだが、お城の図面も何も残っていないわけで、参考にしたのがもちろん当初の豊臣秀吉の建てた大坂城で黒田家に伝わる「大坂夏の陣屏風」絵を参考にしてようやく完成した。ところが、その後、現在に至るまで約90年、落雷は一切ないし火災もない。しかも不思議なことに大阪大空襲の際、周囲はすべて焼け野原になったのに天守閣は少し傷ついただけで健在だった。

「やっぱ太閤はんの建てたお城をわしらで再建したさかいに喜んでくれてんちゃうか。わしら大阪市民を守ってくれてはるで、太閤はんはわしらの守り神、ひーろーや」、「ほんまそやな、わし太閤はん好っきやなー。ファンになろ。」てな会話が大阪人の間で噂されたかどうかわからないが、今もって大阪では親豊臣、アンチ徳川の人が多い。 

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大阪大空襲と大阪城

 では今日はこの辺で。